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Author:seikaiji02
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蓮如忌によせて2019 |
平成から令和に時代が変わりました ニュースでは連日にわたり平成天皇(上皇)が退位する祭祀や新天皇が即位する儀式が報道されていました これらがどこで行われたか 覚えていますか? 皇居・宮殿「松の間」でした 皇居には宮中三殿があり 一連の行事は宮中祭祀であることを改めて認識しました さて、話はずっと過去に遡ります
イギリス・ソールズベリー近くにストーンヘンジという巨大な石柱の建造物が建てられたと言われているのが 紀元前二五〇〇年 今から4500年前です
夏至の日に 建物の中心にある祭壇石と そのほかの主な石の直線上に太陽が昇ることから 太陽崇拝の神殿だと考えられています その瞬間は神々しく 何かしらの儀式が行われていたかもしれません 世界文化遺産にも登録されている有名な建物で 天文学や暦学の発展を物語ります
そして、さらに驚くべき発見があったことを 「サピエンス全史」という書物で知りました 一部、抜粋しながら要約します
「一九九五年、考古学者たちはトルコ南東部ギョベクリ・テペと呼ばれる場所で遺跡の発掘を始めた。 最も古い層では定住地や家、日常的活動の形跡はまったく見られなかった。 ところが、見事な彫刻を施した石柱からなる記念碑的構造物がいくつも出てきた。 一つひとつの石柱は、最大で七トンあり、高さは五メートルに達した。
考古学者たちは、驚くべき事実を発見した。
ストーンヘンジは発展した農耕社会によって建設された。 ところが、ギョベクリ・テペの構造物は、紀元前九五〇〇年ごろまでさかのぼり、得られる証拠はみな、狩猟採集民が建設したことを示していた。
考古学者はこの発見をにわかには受け容れられなかったが、農耕以前の社会がそれを建設したことを確証する検査結果が相次いだ。 狩猟採集社会が、なぜそのような建造物を建設したりするのか? 明白な実用的目的はなかった。
マンモスの屠殺場でも、雨宿りや、ライオンから身を隠す場所でもなかった。
そこで残るのが、何らかの謎めいた文化的目的のために建設されたという説だ。
狩猟採集民は莫大な手間と暇をかける価値があると考えた。 その建設には、何千もの狩猟採集民が長期にわたって協力する以外になかった。 そのような事業を維持できるのは、複雑な宗教的あるいはイデオロギー的体制しかない。
従来の見方では、開拓者たちがまず村落を築き、それが繁栄したときに、中央に神殿を建てたということになっていた。
だが、ギョベクリ・テペの遺跡はまず神殿が建設され、その後、村落がその周りに形成されたことを示唆している。」
日本の皇居・宮殿とトルコの古代神殿を同列に語るのは極端ですが 古代から現代にいたるまで宗教的建造物が果たした役割を改めて感じます 日本の多くの地域では 歴史的には集落の中心に神社があり または近くに寺があります 神社と寺がお隣同士という地区もあります 寺にもそうした無形の価値があるはずだと思い 仏事を勤めていきたいと思います
蓮如忌です 布教使は 七尾市聞成寺住職・上野寿弥さんをお招きします 三年前にも法話をいただきました 先日 お電話でお話をしたところ 上野さんは
「脳梗塞で入院し、現在はリハビリ中。 杖を突きながらの法話になります。」とのこと
どうしても伝えたいことがあるという強い気持ちがあって引き受けてくださいました 是非 お誘い合わせのうえ お参り下さい
令和元年五月五日 誓海寺住職 醒井秀和
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