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誓海寺
かほく市内日角 真宗大谷派 醒井山誓海寺  

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真宗大谷派 醒井山 誓海寺とは
真宗大谷派 醒井山 誓 海 寺

地図002
所在地: 石川県かほく市内日角ニ115
宗 派: 真宗大谷派 醒井山 誓海寺
ご本尊: 阿弥陀如来
宗 祖: 親鸞聖人(1173年~1262年)
教 義: 阿弥陀如来の本願を信じ、念仏を申せば、必ず仏になる身に定まる。
その後は、そのご恩に感謝する念仏を唱えていく。


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A.開 基
A.開 基
  天文23年(1554年)道願(どうがん)によって開基。
  加賀は一向一揆の時代、中央は室町末期で戦国時代に入って行く。
  貞享2年(1685年)加賀藩が加賀・越中・能登の三州の寺社から
由緒を出させたものが「加越能寺社由来上」として出版されている。
 この中で「誓海寺」は、
「一、当寺開闢者、天文弐拾三年道願与申僧寺建立仕候。
至当歳百三拾弐年、住持拙僧迄七代罷成候。
当寺代々加州加賀郡内日角村に今以居住仕、居屋敷地子地に罷在候」
加州加賀郡内日角村 東方浄土真宗 誓海寺 慶祐 貞享弐年六月四日」

と記載されている。
これを訳すると、「誓海寺は天文23年に道願と申す僧が寺を建てた。
それから今年で432年になる。住職は17代になる。
当寺は代々、内日角村に住んでいて、その土地は「地子」地である」となる。
このことから、誓海寺は、天文23年(1554年)に道願によって開基された。
この時代は加賀では蓮如上人が教勢を広めたあとの一向一揆の時代であった。
主な史実をあげると、文明3年(1471年)蓮如上人は吉崎に御坊を開く。
ここでお文を出し各地を布教し、念仏の教えが広まり吉崎への参詣者が急増。
長享2年(1488年)5月一向一揆勢は蜂起して、高尾城(金沢)を攻め、
6月9日高尾城主加賀の守護富樫政親は自害。
加賀は「百姓の持ちたる国」となる。
享禄4年(1531年)開5月、加賀の御山派(河北の本泉寺、江沼郡の光教寺、
能美郡の松岡寺、石川郡の願得寺を中心とする地元派。小一揆側)と
越前山内の超勝寺・本覚寺ら(大一揆側)と合戦となる。
7月、下間頼盛らの京都本願寺勢が加勢、本泉寺・松岡寺・願得寺が焼失し、
本願寺派が勝利した。(大小一揆という)
天文15年(1546年)金沢御堂開設。
天正8年(1580年)4月織田軍により金沢御堂落ちる。
最後まで残っていた鳥越城も落ちる。
この金沢御堂は当初御堂衆が本願寺から派遣され、信仰の儀式の中心であったが
後には坊官が派遣され加賀支配の政庁となっていった。
こうして加賀の一向一揆は約100年の歴史に幕を閉じるが、当寺のみではなく
近隣の寺院がこの頃に開基されていて、蓮如上人の教勢拡大の大きな影響を
思わざるをえない。
B.寺 号
B.寺 号
慶安5年(1652年)に「誓海寺」と称することを許される。
誓海寺と称したのは、誓海寺のご本尊が河北潟から上がったものであり、
潟(海)に誓うことから誓海寺としたのである。

歴史は移って、慶長8年(1603年)徳川家康は江戸に幕府を開き、
元和元年(1615年)に豊臣家を滅ぼし、徳川時代に入って行く。
「誓海寺」が創建された当時はまだ寺号もない念仏道場であったと考えられる。
当時の組織は次のようなものであったといわれる。
本願寺⇒一家衆(蓮如の血縁者の寺。若松の本泉寺など)⇒大坊主(津幡の弘願寺、
木越の光徳寺、大田の受得寺、才田の崎田坊) ⇒末寺⇒道場
慶安5年(1652年)に寺号が許された。
その申物帳(申請書)が京都の大谷大学に残っている。
それは次の通り。
「寺号望(印)誓海寺と御免裕学」(裕学は当時の住職)
本願寺の出版物によれば、各地で寺号の取得が最も活発に行われたのは
17世紀中頃であり、ちょうどこの頃である。

C.琢如上人のご消息
C.琢如上人のご消息
ご本尊が河北潟から上がったことを証明する文書である。
寺号の申請・許可のあった9年後の寛文元年(1661年)4月15日付で、
東本願寺第14世法主の琢如上人から、当寺住職裕学にご消息(手紙)が
発行されていて現存している。
琢如消息
今度その元においては、阿弥陀如来の木像一体海中より出現ましましける
よし聞及候
末代の不思議たる事共存せす候。
是遍に具縛の凡愚こかつの下類に普く随類遍道の結縁を垂まして
ことことく皆安養の本国へ往生せしめんか為の方便にて候。
誠に入仏法の因縁時節到来と思ひしられて候へは、はやくこれらのおういんに
打驚き信心決定して往生浄土の素懐を遂へき事、肝要にて候。(以下略)
あなかしこあなかしこ
 寛文元年四月十五日 琢如(花押)
                   加州金津庄内日角村 裕学坊江

ご本尊が河北潟から上がり、それにちなんで寺号が付けられたことが
京都本山にまで話しが伝わり、時の法主が手紙をしたため当寺に送られたもので
大切な手紙である。
D.檀家制度ができる
D.檀家制度ができる
 誓海寺は当初念仏道場として発足し、お講を開き蓮如上人のお文を読み、
 説教をし、「正信偈」のおつとめし世間話をする場所としての役割を
果たしていたと思われる。
 徳川時代に入って、徳川幕府はキリスト教を禁止する一方で、
寺から檀家の人がキリシタンではなく、その寺の門徒であることを示す
証文を出させたのが寛永12年(1635年)であった。
その後、寛永17年(1640年)には幕府は家ごとの宗旨を調査した
宗旨人別帳を作った。
これが結果的に戸籍として機能した。
これで檀家制度が確立し、寺と檀家との関係は緊密となっていった。
(尚、古文書は残っていない)
E.鈴木家の古文書
E.鈴木家の古文書
   西田幾多郎の先祖にあたる人が当寺に嫁入りしたことを示す古文書である。
   鳥越村の釜清水で昔 十村役を勤めていた鈴木家に
   今も古文書
「先祖由緒兼一類附書上申帳」
「文化七年十月 能美郡 十村 釜清水村 所兵衛」が現存している。
文化七年(1810年)に十村役の鈴木所兵衛が一門のことを書き残したもので、
この中で
一、 兄 河北郡十村 森村 藤蔵
一、 娘 河北郡 内日角村 誓海寺 妻
一、 孫 河北郡 内日角村 誓海寺 新発意 民郷
一、 同  右 同 所         大二
一、 同  右 同 所         門郷
 とある。
   藤蔵は西田幾多郎家の2代目で弟の所兵衛が鈴木家へ婿入りし、
   その娘が当 誓海寺に嫁入りし、男の孫が3人いたと書き残している。
   口伝によれば、釜清水から内日角には籠に乗って嫁入りしたと伝わっている。
   そして在家から寺へ嫁入りするのは大事なご縁であると
   蓮如上人の木彫坐像とそれを納める厨子とを持って来たが、
   これは今も大事に保管されている。

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